【日本の石けん運動の歴史】鳥羽市での合成洗剤追放運動(婦人会・青年団・生活学校の場合)

数ある市内の婦人会の中で、一つだけが今でも熱心に石けんの協同購入を続けています。あとは、2~3の婦人会で、ごく少数の石けん派の人の為に少しずつ石けんの斡旋をしているに過ぎません。

ある婦人会で、役員の交替時に「また今年も頑張ってください」と新役員に頼みに行ったら、「合成洗剤追放は去年のテーマで、毎年同じことをやっていては進歩がないから、今年はやりません」と言われて、開いた口がふさがらなかったことがあります。

1980年前後は、青年団も相当活発に運動をしてくれていました。特に離島の桃取青年団は、村の各所に石けん注文箱を設置し、毎週1回回収して石けんを斡旋していました。しかし団員が減ってきて、石けんの取り扱いは漁協に依頼してしまいました。今でも桃取漁協は、比較的石けんに対して協力的です。

同じ離島の答志青年団も、1980年、私の講演会をしたあと、桃取青年団と同じように石けんの斡旋を始めようとしたところ、同町の市会議員をしている薬屋に反対され、止めてしまいました。この市会議員は、私の講演で自分が扱っている洗剤・化粧品・歯磨きなどの悪口を言われて、頭に来ていたのです。

この後の6月の定例市議会で、彼は『水産課長の講演内容について』という質問をぶつけてきました。普通、議会の質問は、質問内容を予め通告するのですが、内容は一切通告しないという異例の質問になり、理事者側は私のために心配してくれましたが、私は平気でした。質問内容はほとんど日本石鹸洗剤工業会が出している冊子のQ&Aからの引用で、私にとってはどうと言うものではありませんでした。延々2時間、二人だけのやり取りで、午前中の議会は終わってしまいました。この後、薬屋さんは議員仲間から「議会を商売に利用した」と非難され、私の方が正しいということになりました。

生活学校はだんだんメンバーが減ってきていますが、今でも廃食油石けんを作り続けていて、年に何回か石けん作りの勉強会をしています。鳥羽市もこれには応援しています。

以上が請願にかかわった4団体のその後の経緯です。鳥羽市当局の行政としてのかかわりについては、次回に譲ります。

※このコーナーでは、石川貞二さんの文章をそのまま掲載しています。当「石鹸百科」とは異なる見解が含まれていることがあります。