【日本の石けん運動の歴史】鳥羽市での合成洗剤追放運動

全国的な合成洗剤追放運動についても、今後、折りに触れて書きますが、しばらく鳥羽市での追放運動の経緯を回想します。

前述のように、私がウニで合成洗剤の毒性(環境汚染)を本格的に調べ始めたのは1974年10月からです。その頃、鳥羽市の市議会議員には漁業協同組合長が多く(鳥羽市には16の漁業組合があり市議会議員の約3分の1、8名が漁業協同組合長)、私の実験結果を重視してくれて、1976年3月の定例市議会では、総務常任委員会が「合成洗剤使用による海の汚染が目立つので、石けんの使用について住民へのPRと指導を要請する」と市当局に申し入れています。

その後、当時鳥羽市水産課長だった私は、実際には私が作った請願書を市内の4住民団体(鳥羽市漁業協同組合連絡協議会・鳥羽市婦人会連絡協議会・鳥羽市連合青年団・鳥羽市生活学校)に持ち回って、各代表の印鑑をもらってきました。そして、この請願書は76年12月の定例市議会へ『合成洗剤追放をすすめるための請願』として提出され、全会一致で採択されました。前文で合成洗剤の害を説明し、次の6項目を具体策として提案したものでした。

  1. 市当局に合成洗剤追放の専任担当者をおくこと。
  2. 市広報や婦人学級など、さまざまな機会を利用して、合成洗剤の危険性と石けんの安全性を市民に熟知させること。
  3. 市役所内・市関係施設・学校関係施設での合成洗剤の使用を中止すること。
  4. 市内の旅館観光施設での合成洗剤の使用を中止するように指導すること。
  5. 市内における洗剤販売店で、必ず石けんを合わせて販売するように指導すること。
  6. これらの施策を進めるために昭和52年度(1977年度)より必要な予算を計上すること。

これらの具体的な請願を市議会全員一致で採択された以上、市当局はどうしても対応しなくてはならなくなりました。

鳥羽市がどのように対応し、更にどうのように変わっていったかは後述することにして、請願に関わった4団体がその後どうなていくのかは、次回からのお楽しみですが、期待はしないでください。今、漁業組合長の市議会議員は一人しかいません。もう惨憺たる有様です。

※このコーナーでは、石川貞二さんの文章をそのまま掲載しています。当「石鹸百科」とは異なる見解が含まれていることがあります。