【日本の石けん運動の歴史】受難の先駆者

1962年(昭和37年)1月24日のお茶の水医学会での発表に先立ち、1月11日その要旨が全国有力新聞に報道されました。それ以来各新聞紙上で連日のように、合成洗剤の有害・無害論争が交わされ、社会問題にもなりました。

東京都は東京都食品衛生調査会中性洗剤特別専門委員会という長い名前の会を作り、会合を企画しましたが、メンバーに生化学者が一人もいないという柳沢文正先生の抗議から、1回目の会合は流れました。2回目は3人の専門家を加えて、62年2月26日に開かれ、そのうちの一人から「ABS(アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム)は、健康人には何ら影響しないかもしれぬが、例えば肝臓が悪い人、衰弱した人、老人、幼児では、ABSが入れば悪い影響を及ぼし、それもABSで起こしたかどうか分からぬように生じまたは死ぬこともあり得る」と発言しています。その席でも、柳沢文正・柳沢文徳両博士は「石油系合成洗剤は決して無害ではない」との見解を発表しています。

柳沢文正先生が東京都衛生研究所に在籍中、当時の辺野正夫所長から、「君は中性洗剤の研究をやめた方がとくだよ」と何回も言われました。所長が中性洗剤無害論を主張している人だから当然とは言え、柳沢先生の研究には絶えず圧力がかけられました。遂に64年4月1日、東京都の目黒衛生局長に呼ばれ、各部長立ち会いの上で中性洗剤の毒性研究の中止を言い渡されます。「洗剤の毒性・公害について局長が責任を取るのでしたら、明日から止めます」と抵抗しますが、「私の苦境も察してくれ」と言うだけでした。

62年『合成洗剤の化学・白い泡の正体』63年『台所の恐怖』と矢継ぎ早に著書を出版されますが、この頃、日本石鹸洗剤工業会から「5億円差し上げるから、合成洗剤の悪口は言わないでほしい」という申し出があったと先生から聞きました。そしてとうとう69年東京都衛生研究所を退職せざるを得なくなり、柳沢成人病研究所・柳沢診療所を開設し、一介の町医者として再出発され、多くの患者さんの健康と命を守り名医と慕われました。ご本人は「この問題に手を染めさえしなければ、私は専門の分野で平穏に過ごして来ただろう」と回顧しておられますが、1985年5月4日急性肺炎で亡くなるまで(74歳)、合成洗剤追放に尽力されました。

※このコーナーでは、石川貞二さんの文章をそのまま掲載しています。当「石鹸百科」とは異なる見解が含まれていることがあります。