【日本の石けん運動の歴史】合成洗剤研究会の分裂

1977年、既に野に降りていた柳沢文正先生を始めとする、合成洗剤の害を調査研究している学者・研究者が集まって『合成洗剤研究会』を結成することになりました。多数の推薦で柳沢文正先生が第1回の会長になりました。その時、研究会は学者・研究者・技術者だけの学会にするべきだという一部の意見を退けて、消費者運動の人達も一緒に研究するべきだと主張された先生の意見が通り、第1回が4月23日に開催されました。

千代田区私学会館で開かれた研究会は、開会前すでに満席となり、座席数をはるかにこえて総数633名に達し、入場出来ずに帰った人が100名をこえました。その時私も『ウニ卵の発生による洗剤類の急性毒性実験』という発表をしています。

この研究会のまとめとして柳沢会長は「研究発表の内容は多種多様であったが、合成洗剤の強烈な毒性を指摘する一方で、脱洗剤の生活にアプローチしようとする実践的研究がめだった。これらの研究実践が今後もつみ重ねられれば、合成洗剤の毒性、社会被害はいよいよあきらかとなり、これらへの対応を放置する行政の怠慢、企業の横暴ぶりがいっそう指弾されてゆくであろう」と書いています。

しかしその年の秋に、研究会の有力メンバーの一人が、ある講演会で「第1回の研究会は、我々と考えの反対の人が会長をしたために、おかしくなってしまったが、2回目からは我々と同じ考えの人が会長になったから、正常に運営されるであろう」と発言しています。最初からこのように不快な要素を含んでいた研究会は第4回を迎えた1980年、文正先生の弟の柳原文徳先生が会長に就任したことから、ついに分裂するはめになったのです。

この年施行された滋賀県の『琵琶湖の富栄養化防止に関する条例』に対する評価、その頃出回ってきた高級アルコール系合成洗剤についての評価が、役員の間で真二つに割れたのが原因でした。一部の革新系政党に属する役員は、この条例を高く評価すると言い、高級アルコール系合成洗剤は《より良い合成洗剤だ》とするのに対して、我々柳沢派は合成洗剤を容認するような条例には賛成できない、また高級アルコール系の合成洗剤は有害であると主張してお互いに全く譲らず、柳沢派は大津で『合成洗剤研究学術集会』と名乗って合成洗剤研究会とは別個に集会を開きました。

※このコーナーでは、石川貞二さんの文章をそのまま掲載しています。当「石鹸百科」とは異なる見解が含まれていることがあります。